私は、人生を偉そうに語れるほど、人生経験が豊富な年齢ではない。しかし、まだまだ、未熟な青年というわけでもない。自己判断ではあるが、自分の進みたい道を選択して、数々の困難を乗り越えてきたと思っている。起業してからは、誰かに頼るわけにはいかず、自分で困難を乗り越えて、新しい道を切り開いていくしか、選択肢は無かった。
私が起業したのは20代の頃で、当時は、経営者の知人も少なかったので、同世代である地元の友人と、たまに酒を飲み交わしていると、勤め先の愚痴を聞かされることも少なくなかった。友人の愚痴を聞いていると、会社に個人的な期待感、要望を押し付けているような気がした。私は、そのような愚痴を聞いて「うん。そうだよな。お前は間違ってない」と素直に共感することできず、違和感を抱きながら、友人の話を聞いていた。
その違和感を覚えてからは、大袈裟に言えば、社会現象を起こしているかのように、至る所で、同じような、違和感を抱くようになった。そして、その違和感について、考えることが多くなった。
それが、本書で書いている『信じるという言葉の誤解』だということに気付いた。私は最初から、信じるという言葉が汚いものだと思っていたわけではない。
幼い頃から「信じることは汚いことで、利己的なものなんだ」というような主張をしている、変な子供ではない。記憶は曖昧だが、ごく普通の子供で、信じることは綺麗なものだと思っていたはずだが、それは、私たちの育ってきた環境が、産み出した幻想でしかない。
そのことを理解していても、本書を執筆するにあたって『信じることをやめるべきだ』と大々的に主張していいものか、少し考えもした。それほど、私たちは信じるという言葉が、美しいという強烈な印象を持っている。
その状態で、信じることをやめるべき理由を、本書で執筆するのは、難しいものだった。しかし、順序よく並べれば『信じる』『信用』『信頼』これらの言葉が纏っている綺麗な印象と、反対の使われ方が一般的になっていることに、気付いてもらえたと思う。ただ、私が電子書籍で、このようなことを書いても、信じるという言葉に対する、世の中に認識は変わらない。他者を信じないと言葉にすれば、変人扱いされる可能性は非常に高い。
しかし
『賛成の数が多いからと言って、何一つ価値のある証拠にはならない』
これは、近代哲学の父として知られるデカルトが、方法序説の中で述べたもので、多数決の不確実性を表している。彼はこの中で、人間は環境が違えど、正しい理性を使うことで、世界認識の普遍性に到達すると主張した。そして、全てを疑うことで、これを証明している。
つまり、誰もが置き換えられる点に、的をおき、そこから正しく物事を判断しなければ、真意は分からないと言い換えることもできるだろう。
彼が行ったように、全てを疑うことは現実的ではないが、要所要所で、真意の確認をする必要はあるのではないだろうか? 真意を確認しなければ、知らずのうちに、多勢に流されているかもしれない。答えは、多勢の中ではなく、あなた自身がもっている。そして、あなた自身が人生の舵取りをしていこう。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」この有名な言葉の、我とは、あなた自身だということを忘れてはいけない。