前項では、昭和の技術者を例にとり、共同作業であれば、信じることで力を発揮するということを伝えた。信じることが、共同作業において有効なのは、同じ目的を持っているからだ。昭和の技術者であれば、開発チーム全員が、その計画を成功させたいという、同じ目的を共有していたからこそ、信じるという言葉が有効に働いた。
では、個々の関係性において、信じるという言葉は、なぜ意味を成さないのか? 信じるという言葉は、なぜ無駄なものになるのか? それは、思考、価値観、環境は人それぞれで、個々は自由を尊重し、目的も人それぞれ違うからだ。
何度か例にあげてる、恋愛にしても、基本的に、お互いの目的は一致していない。2人で幸せになるという目的を共有していても、幸せの定義も違えば、幸せを感じる出来事も違う。
お互いの価値観が合うといっても、細かい部分では、人それぞれ価値観、考え方が違うのは当然のことだ。それなのに、個人的な価値観を、信じているという言葉で、相手ぶつけているのは、同じ目的のための問いではなく、個々の違いの差を問いているだけで、無意味な問いかけである。
終身雇用の例にしても、社会または、国民性が変われば、国の慣行も変わるのが当然と言える。それなのに、国を信じていたのに、裏切られたと嘆いていることに、違和感がないか? 終身雇用が慣行となっている日本を信じていたなら、社会や国民性に合った改善を喜ぶはずだ。しかし、多くの国民が、悲観的になったり、怒ったりしているのは、国や企業の目的と、個人の目的の違いが生み出した、矛盾だと言える。
これからのことから分かるように、共同作業であれば、目的に対して、その結果を全員が信じることで、チームの原動力を高めることができる。目的を共有しているチームであれば、チームワークという力を発揮することができるということだ。しかし、目的が違えば、信じることの効果はない。むしろ、個々の関係では、人それぞれ目的が違うから、信じることで、勝手な期待感の押し付けとなってしまう。
信じるという言葉は、個々の関係では、全く役に立たないものだが、チームを統制する。チームの原動力、目標達成率を高めるという意味では、効果を発揮するものだ。なので、信じるという言葉は、あなたの環境に合わせて、うまく使いこなさなければいけない。
自動車と同じで、アクセルを踏めばいい場所では、アクセルを踏めばいい。アクセルを踏んでいけない場所で、アクセルを踏めば、事故に繋がるのは当然だ。信じるという言葉も、どの場所であれば、効果を発揮して、どの場所で利用すれば、事故の原因になるかを、しっかりと理解しておいてほしいということだ。